自分を持つ
2004年4月4日「自分を持つ」
「自分を持っている人」
いつの間にか、
こんな不思議な言葉が
僕らの周りに氾濫している。
僕はこの言葉が好きじゃない。
いや、この言葉を使う人が好きではない
この言葉はどういう意味なのだろう。
推測するに
「自分一流の信念がある人」
「自分一流のこだわりを持つ人」
「流されない人」
こんなところだろうと思う。
信念、こだわりならどんな人だって、
少なからず、必ず持っている。
では、なぜテレビなどで一般に
「自分を持っている」と言われる
人たちは魅力的に映るのか。
それは彼らの「自分」に魅力があるからである。
つまり彼らの「信念」が魅力的だからである。
「自分を持っていること」が魅力的なのではない。
そして、もう一つ。
彼らの信念が、得てして「常識」や「道徳」と
言われる考え方に矛盾しているのは、
それは単に偶然に過ぎない。
彼らは決して「世間の考え方に抗うため」に
その考え方に至ったわけではないのである。
良い意味で「常識など眼中にない」のである。
なぜ、こんなことを言うのかというと、
僕の周りに、やたらと「自分を持つ」と言うことを
目指し、それがこれ以上無い、格好の良いことだと
思っている人がいるからである。
その人は、
「常識」や「道徳」と
いわれる考え方をやたらに否定し、
世間的に「ダメ」「すべきではない」
(具体的には不倫、援交(売春)、二股、暴力)
と言われることを行って平然を装い、
そしてそれが自分で、
格好の良いことだと思っているのである。
恐るべきお馬鹿さんたちである。
ある女の子は言う
「私、援交でも売春でも、
本人が信念に基づいてやっていることなら良いと思う。」
それは良いかもしれない。
しかし、その信念が、
「体を売っても、物が欲しい」では
決して魅力的な人間とは言えないと思うのだ。
今一度言うが、
「自分を持っていること」
「信念に基づいて行動すること」
は決して魅力的な事ではない。
ある意味、それは当たり前のことですらある。
魅力的か否か、かっこいいか否かは、
その「自分」「信念」次第である。
そしてまた、「常識」や「道徳」に
抗っていることは、それは何も格好の良いことでは無い。
もしそうだとするならば、
殺人こそが最も格好の良いことと言うことになる。
次の言葉はある後輩から届いたメールです。
「私は、あばずれみたいになりたい。
体とか全部汚れても、心の中に曲げれんものがあって、
それがあるから、汚いけど綺麗に見えるような、
生きて行けているみたいな。」
まさに呆れるばかり・・・。
僕はこのメールにも、
また、「自分を持つ」と言う言葉を
何かしらすごく価値のあることのように捉えて、
使う人にも、軽蔑感を禁じ得ません。
凄く馬鹿な人に見えてしまいます。
太宰風に言うならば
「世にもけがらわしく無内容なくせに、
それでいて、いかにも何やら意味ありそうに
乙に澄ましている」人や言葉
っという風に見えてしまいます。
「自分を持っている人」
いつの間にか、
こんな不思議な言葉が
僕らの周りに氾濫している。
僕はこの言葉が好きじゃない。
いや、この言葉を使う人が好きではない
この言葉はどういう意味なのだろう。
推測するに
「自分一流の信念がある人」
「自分一流のこだわりを持つ人」
「流されない人」
こんなところだろうと思う。
信念、こだわりならどんな人だって、
少なからず、必ず持っている。
では、なぜテレビなどで一般に
「自分を持っている」と言われる
人たちは魅力的に映るのか。
それは彼らの「自分」に魅力があるからである。
つまり彼らの「信念」が魅力的だからである。
「自分を持っていること」が魅力的なのではない。
そして、もう一つ。
彼らの信念が、得てして「常識」や「道徳」と
言われる考え方に矛盾しているのは、
それは単に偶然に過ぎない。
彼らは決して「世間の考え方に抗うため」に
その考え方に至ったわけではないのである。
良い意味で「常識など眼中にない」のである。
なぜ、こんなことを言うのかというと、
僕の周りに、やたらと「自分を持つ」と言うことを
目指し、それがこれ以上無い、格好の良いことだと
思っている人がいるからである。
その人は、
「常識」や「道徳」と
いわれる考え方をやたらに否定し、
世間的に「ダメ」「すべきではない」
(具体的には不倫、援交(売春)、二股、暴力)
と言われることを行って平然を装い、
そしてそれが自分で、
格好の良いことだと思っているのである。
恐るべきお馬鹿さんたちである。
ある女の子は言う
「私、援交でも売春でも、
本人が信念に基づいてやっていることなら良いと思う。」
それは良いかもしれない。
しかし、その信念が、
「体を売っても、物が欲しい」では
決して魅力的な人間とは言えないと思うのだ。
今一度言うが、
「自分を持っていること」
「信念に基づいて行動すること」
は決して魅力的な事ではない。
ある意味、それは当たり前のことですらある。
魅力的か否か、かっこいいか否かは、
その「自分」「信念」次第である。
そしてまた、「常識」や「道徳」に
抗っていることは、それは何も格好の良いことでは無い。
もしそうだとするならば、
殺人こそが最も格好の良いことと言うことになる。
次の言葉はある後輩から届いたメールです。
「私は、あばずれみたいになりたい。
体とか全部汚れても、心の中に曲げれんものがあって、
それがあるから、汚いけど綺麗に見えるような、
生きて行けているみたいな。」
まさに呆れるばかり・・・。
僕はこのメールにも、
また、「自分を持つ」と言う言葉を
何かしらすごく価値のあることのように捉えて、
使う人にも、軽蔑感を禁じ得ません。
凄く馬鹿な人に見えてしまいます。
太宰風に言うならば
「世にもけがらわしく無内容なくせに、
それでいて、いかにも何やら意味ありそうに
乙に澄ましている」人や言葉
っという風に見えてしまいます。
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